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マテイキ広場

クラクフ美術大学

マテイキ広場(又はマテイコ広場)は旧市街北部にあるフロリアンスカ門から1分あるいたところにあります。14世紀から18世紀までクレパシ市(クラクフの隣町)の市場の一辺でした。その市場は昔より狭いものですが、まだマテイキ広場の西側にあります。今の市場とマテイキ広場の間にある建物は18まではなかったということです。1791年にクレパシはクラクフと合併して、クラクフの地区になりました。19世紀の半ば、市場は三分の二のスペースをとられて、東側はそのまま市場となって、スタリ・クレパシュ(Stary Kleparz、古いクレパシ)と名づけられました。それから西側から19世紀後に整理してから代表広場を作りました。間には立派な建物ができました。まず1879年にクラクフ美術大学(当時まだ美術学院でしたが)のキャンパスが完成しました。

グルンバルド戦い記念碑と無名戦士の墓地

1910年7月15日に代表広場で反ドイツ騎士団勝利500年記念行事が開催されました。ポーランドとリトアニア連合軍がグルンバルド村でドイツ騎士団を破ったことを記念するイベントでした。それに先立って、広場で膨大なモニュメントを建てて、当日にはとても豪華な除幕式を行いました。しかし、現在のモニュメントはそのレプリカです。第二次世界大戦中にドイツ人が1910年の記念碑を壊して銅を溶かして兵器製造などに利用しました。おかげさまでモニュメントの設計図が見つかって、それに基づき1976年にレプリカを建てました。オリジナルモニュメントのかけらが二つしか残っていて、現在シンドラー工場の博物館で公開されています。

グルンバルド戦い記念ギの前にあまり目立たないモニュメントもうひとつあります。台の上に円錐の形をしているものです。これは無名戦士の墓地です。1976年に建てられたものですが、その前、1925年からパリの無名戦士の墓地を真似して第一次世界大戦でポーランド兵士が命を失った追悼碑が同じ場所に立っていました。その隣に1946年に第二次世界大戦中にポーランド兵士が戦った戦場からとった土を収めた器を設置しました。一方、1976年に今のモニュメントが出来て、その器が地下に安置されています。マテイキ広場ではいつも国立記念日、健保記念日など国民の祝日の際に無名戦士の墓地に政治家たちが花を手向けて、お祈りやスピーリを行います。そのとき、円錐から火もでています。

マテイコの胸像

最後に謎の広場の名前についてご説明します。マテイキというのは19世紀ポーランドのもっとも有名な画家の名前です。ヤン・マテイコ(Jan Matejko)はクラクフ生まれで、ポーランドの歴史や政治の出来事を主題にして数え切れないぐらい沢山の作品を制作しました。ずっとクラクフで活躍していました。クラクフの美術学院の学長になって、彼の努力でやっとちゃんとしたキャンパスができました。上記にお話したのはそれです。

マテイコを記念にして、学院が大学に昇格したら、大学名はヤン・マテイコ美術大学になって、キャンパスの入口の上に画家の胸像が設置され、それから広場もPlac Matejki(マテイキ広場)という名前に変わりました。

マテイキ広場にはいくつかのレストランがありますが、今回2店をご紹介します。Glonojad(グロノヤド、海草を食べる人という意味)は名前どおりビーガンレストランです。ヘルシーで野菜たっぷりの料理が沢山あります。そしてなんとビーガンのケーキまであります。もう一店はJarema(ヤレマ)です。ミシュランにも認定されていますが、そこまで値段が高いお店ではないです。伝統ポーランド料理のお店で、ジュレックやポーランド風とんかつなどポーランドの定番料理がありますが、なんと日本語のメニューまで用意されています。


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